その子育て、間違っていませんか?
先日本屋に入ったとき、ある経済誌の教育特集の表紙が目に入り、ギョッとました。
「その子育て、間違っていませんか?」
という見出しがついています。さらにその下には
「科学でここまでわかった!悪い教育 良い教育」
という小見出しが。
「間違う」「悪い」といったネガティブワードを前面に押し出すことで、ことさらに子育ての不安を煽るその雑誌の見出しを見て、私は少なからず不快感を覚えました。
しかし、実際に雑誌を読んでみると、見出しから受けた印象とは裏腹に、むやみに不安を煽ることはなく、丁寧な取材の基づくバランスの取れた内容でした。
それだけに、かえって表紙の不安を煽るような見出しが気になります。おそらくこの雑誌の編集者は、ネガティブワードを連ねたほうが、子育てに不安を持つ親の注目を惹けると考えたのでしょう。
問題なのは雑誌自体より、むしろ普段から子育てに不安があり「間違う」「悪い」などのネガティブなキーワードに反応してしまう親御さんが多くいる、と思われている現状ではないでしょうか。
自己責任と自己決定を求める時代の変化が子育てへの不安を生む
私が相談にのっている発達障害のある子を育てる親御さんの中にも、子育てに不安を持つ方が多くいらっしゃいます。その理由は、お子さんの障害にあることも確かですが、それ以前に子育て自体に不安を感じている方が多いと感じており、そこに療育者・支援者としてどう向き合っていくかが、今私の中で大きなテーマになっています。
そんな中で、子育てにまつわる不安の向き合い方に大きなヒントを与えてくれたのが、首都大学東京教授で社会学者の宮台真司さんが書いた「最適という孤独を離れ、満足の共同性へ」という文章です。
この文章の中で宮台教授は、今の時代、人々が多くのことを自身の責任で判断せざるを得なくなった結果、不安に陥る人が増えていることを指摘します。
以下、リンク先の文章から引用します。
何もかも個人が自己責任で自己決定の機会を引き寄せる必要が出てきたという時代の変化が、「社会として」いいのか悪いのかは、考えなくてはならないことです。抽象的な水準で言えば、個々がバラバラに分断され孤立した状態になると、全てを自分でハンドリングしなければならないので、自分にとって「最適な選択」をしないと「損をする」「置いていかれる」などと不安に陥りがちになるので、社会が不安ベースになります。
これだけ情報があふれた流動的な社会では、「最適な選択」なるものは単なる幻想に過ぎません。どんなに「最適な選択」をしたつもりでも、少し時間が経てば状況が変わり、「あれば間違いだったのではないか」「不適切だったのではないか」と思い返することになり、さらに不安に襲われます。こうして、安心ベースだった社会のあり方が、不安べースへと変化してしまうのです。
発達障害のある子を育てる親御さんの中にも、お子さんの療育について常に最適な環境を求めながら、宮台教授が指摘するように「あれは間違いだったのではないか」「不適切だったのではないか」と思い返して、不安に襲われている方が多くいると感じます。
宮台教授は、こうした不安から抜け出すには<最適化>原理に基づく考え方をやめ、<満足化>の原理へと切り替えていく必要があるとし、そのためには空洞化した共同体の復活が必要であると述べます。
経済学者は、利潤の最大化(投資効率の最適化)が人間の行動原則だとする仮説に立ちます。しかし、これは企業やファンドなどの資本の動きについて妥当するものの、実は僕たち自身はそのように生きていません。「最適」でなくても、特に問題がなければ(そこそこ満足なら)前に進む。それが〈満足化〉の原理です。この原理は共同体の自明性ともにあります。
「自分で何もかもしなくては⋯」と過剰に思い込む人は、〈最適化〉原理に駆られがちになって不安や抑うつ感から逃れられなくなります。現にそういう人ばかりでしょう。だからこそ、自覚的に、ものごとの評価を〈満足化〉原理に引き戻すことが重要です。そのためには、自らを包摂する共同体、すなわち「出撃基地であり帰還場所であるようなホームベース」を築いていくことが不可欠です。そうすれば〈満足化〉に簡単に近づけます。
共同体とは何かという問いについて、宮台教授は転校を多く経験した自身の子ども時代の経験を挙げます。
僕は六つの小学校に通う転校生でしたが、僕自身けんかが弱くても、けんかの強い子と友だちになる力があったから、心配ありませんでした。逆に、友だちは、学級委員をつとめる僕といつも仲良くすることで、担任の先生の大目玉を食らう頻度が減りました。そう、「持ちつ持たれつ」です。
けんかが弱ければ、強い子と友だちになればよく、勉強ができなければ、できる子と友たちになればよい。「持ちつ持たれつ」で共同体的に結合していけば、個人が万能である必要はない。人間関係の輪に入って分相応の役割を果たせればいいだけです。
そして、子どもがこうした共同体関係に結びついていることが、充実や幸せ、あるいは挫けない力に繋がると主張します。特に挫けない力は「レジリエンス」として昨今注目されているキーワードでもあります。
「これさえすれば子供が幸せになる」「勝たないと置いていかれる」と考える時点で、〈感情の劣化〉を被っています。〈感情の劣化〉とは、他者や共同体に貢献する気持ちが働かないこと。つまり、損得勘定による〈自発性〉を超えた、内から涌く力としての〈内発性〉が生じないこと。
自分の最終目的を支える価値が、利他性や貢献性と結びつくものであることが、最も強い動機づけを与えるのです。この強い動機づけに基づく行為は、成功すれば、個人を超えた充実や幸せにつながり、失敗しても、挫けない力を与えます。また、失敗しても、動機が利他性ですから、自分の属する共同体から排除されず、包摂されます。
個人ベースから共同体ベースへの子育てへ
こうした宮台教授の意見を受けて、今私が感じているのは、<最適化>原理から<満足化>原理の切り替るために、個人ベースで展開されてきた子育てや教育を、共同体ベースへのそれとシフトさせていくことの必要です。
特に発達障害児の療育については、先にも述べたように、その子の障害ばかりを注目した結果、宮台教授が指摘する<最適化>原理の思考に陥って、療育をまるで株式投資のように考え、常に最適な選択をしたつもりで「あれば間違いだったのではないか」「不適切だったのではないか」と思い返して、さらに不安に襲われている親御さんや支援者が多いように感じています。
そうした不安から抜け出し、子どもたちに、「自らを包摂する共同体、すなわち『出撃基地であり帰還場所であるようなホームベース』」を提供すること。そして、子どもたちが共同体との結びつきを感じることで、利他性や貢献性に基づいた強い内発性を獲得させることこそ、今子育てや療育に最も求められていることなのではないかと考えます。
共同体を生み出す手段としてのアナログゲーム
当サイトでご紹介しているアナログゲーム療育もまたこうした問題意識に連なるものです。
アナログゲームではプレイヤーたちは一つのルールを守りあってプレイします。その過程で、プレイヤー同士に誰かがルールを理解していなければ別の人がそれを教え、プレイに不安を感じている人がいればアドバイスする関係性が生まれます。その意味で、ゲームという場は、共同体としての側面を持つのです。
ゲームの共同体としての側面を強調し、そこに結びつこうとする子どもたちの間にうまれる関係性を生かして、コミュニケーション能力の引っ張り上げるのがアナログゲーム療育です。
その指導原理は、またの機会に詳しくご説明したいとおもいます。